何かを選ぶときは消去法ではなくてポジティブな理由を考える

よく、ある課題について対応案を3つぐらいつくって、それのメリット/デメリットを比較した上で顧客に推奨案を提示する、という場面があるんだが、そのときの考え方で昔上司に言われたことが、今でも忘れられない。

例えば、A、B、Cの3案があった場合に「BとCはこういう理由で実現が難しい。よってA。」という結論の導き方で提案書をつくって上司に持っていったら、「これじゃダメだ」ってあっさり突き返された。「BとCがダメだからAじゃなくて、A自体を選ぶのが良い理由を考えろ」というのがダメだしの理由だった。

自分の中でその指摘がとても衝撃的で、今でもそのときの自分の脳みそが受けた刺激が記憶にこびりついている。確かに自分は消去法で選択肢をつくっていたし、その内容にはAの良さなど触れていなかったのだ。これは自分の中で大きな発見だった。

 

今回の例は3案だけど、これが無数にある場合はどうだろう。消去法は使えないし、そもそもどういう選択を行うのが良いのか見えないかもしれない。僕は、消去法というネガティブな選択ではなく、「これを選ぶのはなんて素晴らしいんだろう」というポジティブな理由が大切なんだと学んだ。

 

さて。少し話が変わって。どこで読んだのか忘れたけど、最近の大学生ぐらいに出会うと、「あれをやらなきゃいけない」とか「自分はこうあるべきだと思う」とかそういう強迫観念というか追いつめられたような印象を受ける、という記事があった。(ごめん、もうほとんど内容も覚えてない。。。)

最初のエピソードを思い出したのは、この記事を読んだからなのだ。いろんな社会通念に触れて、こうあるべきだなって学習したり向上するのは良いことなんだろうと思うんだけど、それってやっぱり消去法というか自分の中でポジティブな理由で選んでいないんじゃないかと思ったりするわけです。

だから、また新しい情報に触れて、自分の中でまた違うロールモデルとかルールを探し出して、「ああ、こうあるべきなんだな」という答え探しを繰り返すようなことをしてしまうんじゃないかと。そんなことを思った。自分がそうだった気がしたから。他の人は違うんだろうか。

 

今はたくさん情報があるし、逆に明確でわかりやすいロールモデルもない。だから、いろいろ情報に触れるたびに、ああでもない、こうでもないって模索する姿が正しいのかもしれない。そういう中で、「やりたいことがあるんだよね」ってはっきり言えることって素晴らしいよね。

だから、ネガティブな消去法で選ぶのではなくて、「BもCもいいけど、Aが○○だから良いに決まってるじゃん!」という選び方を出来る方が幸せだろうし、数ある選択肢の中に溺れたとしても、自分を見失わずにいられる気がするんだよね。何か選ぶ状況になったら、消去法ではなくてポジティブな理由を考えよう。

ミスはなくならない

ああ、今日も細かいミスをたくさんしてしまった。昔から、それこそ小学校ぐらいの頃からケアレスミスが多くて、自分でうんざりしている。大学院の研究時も教授に指摘されたし、社会人になっても未だにその癖は直っていない。

 

細かいミスについて、今日読んだこの記事が面白かった。

 

ミス魔だった私がノンミスに変わった方法 » R-line DESIGN

 

この記事に書いてある通り、確かにいろんな工夫によって僕もミスをする確率は減った。それでも少し気をゆるめたり労力を惜しめば、またミスは増えていく。つまり、確率論として作業をすればするほどミスは混在してしまうし、それを防ぐための労力をかければ、減ることを学んだ。

 

ミスを完全になくすためにはそれ相応の労力が必要になる。そして、パレートの法則ではないけれど、最後の数%を根絶するところに大きな労力を要する。「ミスがある」ことを証明することは簡単だけど、「ミスがない」ことを証明するのは不可能だからだ。これを考えると、どこかで費用対効果のバランスがあると思うんだよね。

確かにミスはよくない。ゼロにすべきだという人もいる。僕もそう思う。ひとつのドキュメントでたくさん誤植があると、「ちゃんとチェックしたのか」と言いたくなる。些末なミスというのは、そういう品質や印象に関わるのだ。だけど、僕は人はミスをするものであり、それを根絶するには多大な労力を要すると考える。だから、どこまで労力を費やして品質を上げるべきかは、常に考えてしまう。だって、品質管理で有名なシックスシグマだって、欠陥をゼロにするわけではないんだよ。

 

もうひとつ僕が気になっているのは、なぜかミスに「気づける人」と「気付けない人」が存在するという不思議だ。同じ文章を同じように読んでいるのに、よく気づく人は高い確率で気づく。この傾向は、個人の意識がどこに集中しているか、というところにもよるだろうけれど、やはり個人の特性に依存する部分も大きいのではないかと最近は思っている。

 

というわけで、僕が言いたいのは、ミスは人間が作業する以上決してなくなることはないので、どこまで労力をかけるか(逆にどこで諦めるか)の線引きが必要になるということ。そして、個人の品質向上に依存するのではなくて、個人の適性も含めて、組織全体としてミスを減らしていくような仕組みを作ることが重要なんじゃないかと思うわけです。

 

といいながら、自分の今日のミスを戒めることにします。

発注者が業者と良い関係を築くための5か条

ちょっと面白かったので、メモ程度に適当に訳しておく。発注する側も発注される側も役に立つと思う。

5 Tips for Managing Successful Vendor Relationships

1.自分自身を知る

自分の組織のプライオリティを明確にして、Give&Takeを行うこと。

 

2.相手を知る

営業担当者だけでなくて、幹部も含めて関係を築く。そして、業者の動機づけを知ること。

 

3.パフォーマンスを評価する

業者のパフォーマンスをポジティブに評価する。できれば、スコアカードなど定量的な測定方法で。

 

4.十分にコミュニケーションする

できるだけオープンで、正直に要望や期待を共有する。フランクで、透明な関係性を築くこと。

 

5.契約を知る

作業スコープなどは明確に双方で理解しておく。契約を差し置いて、議論しないこと。

 

すごいさらっと書いてあるけど、とても原始的であるが故に重要。個人的には、1と2がお気に入り。ここができていないというか、「できたつもり」な場合が多い気がするなー。

資格は何のために取得するのかという話

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仕事をする上で資格って本当に必要?実際に働いてると、特にIT系の資格については「いやー資格なんてとっても仕事には何もプラスなことはないよ」という話をよく聞く。そして、自分もそれを実感したりはする。

 

資格の特性について

そもそも、資格には独占業務があるものとないものに大別できる。弁護士とか税理士がわかりやすいけど、資格を持ってないとやってはいけない仕事というのがあって、そういう場合は一定の仕事は絶対あるし、競争相手が自ずと少なくなるので儲かりやすい、と言われている。(最近はまた違うようだけど。)

IT系の資格なんて、そういう意味では監査系の仕事以外はほとんど独占業務なんてないんじゃないかな。監査もいろいろ種類があるし、資格なくてもやってる人もいるかもしれない。

 

何のために資格を取得するのさ

資格を取得することによって直接仕事が増えるわけではないのだとすれば、何のために資格を取得するんだろう。そうなると、スキルアップが目的になるんだと思うわけです。

人がスキルを身につけるためには、OJTとOff-JTの2種類に分けられて、それぞれにメリット・デメリットがある。OJTは、現場ですぐに活用できる知識ややり方を吸収できるけど、一方で独自のルールや慣習に影響を受け、視野が狭くなる可能性がある。Off-JTはそもそも実施自体に時間と労力を要するし、現場でもすぐに活かせるとは限らない。しかし、体系的に知識を整理して吸収してもらうことで、視野が広く、正しい理解を促進することができる。

で、資格をOff-JTのひとつと考える。資格制度はそれなりに必要と思われる知識を整理しているし、難易度によって段階を設けている場合も多い。

 

知識と実務の溝みたいなもの

だけど、資格を取ろうとしている人を見ると、資格を実務に活かす、ということがほとんど意識されていない場合がほとんどだったりして、そこの溝は大きいもんだなと思う。で、その理由を考えると、やっぱり現場でどう活かすか、というところがイメージしづらいからじゃないかな。最近は講習と組み合わせて資格認定するものもあったりして、いろいろ工夫が見られるけどね。

ただ、これも意識次第だと思ったりもする。「どう活かすか」と思って勉強するのと、「とりあえず勉強しておくか」では大きな違いがあるんじゃないかと。

 

でもとりあえず資格を取るって良いことだと思う

不思議なことに、勉強したことが今は全く仕事と関係なくても、いつか全くの偶然から知識と仕事が結びつくことがある。「あのとき勉強したあれって、このことだったんだ。」みたいなことが結構な頻度であるんだよね。不思議と。だから、すぐに役立つことはなくても、興味を持って勉強することは無駄じゃない。

それに資格を取得する、ということで何かを獲得するゲーム性とか達成感を感じることができるし、履歴書にもハクがつく。やはり対外的に一瞬でスキルを説明するときに、資格というのはありがたいなとも思う瞬間がある。そして幸い、IT系はたくさん資格がある。

あるいは、顧客の業務に関連する資格を取得してみても良いと思う。コンサルやってると幸せなことに、いろんな顧客の業務と係わることができる。その度に勉強するのは大変だけど、知るのは楽しいことだ。そして、探してみるといろんな分野で資格制度があって、せっかく関わったのも縁だし、何か関係する資格取ろうかなーと考えるのも楽しい。

 

さ、資格の勉強しよ。

大人になるって本当に楽しい

jill111 / Pixabay

大人になるって本当に楽しい。

昔を懐かしいと思うことはあっても、学生に戻りたいとは思わないね。

学生に対し、恐ろしい言葉で脅かす大人たちがいる。
大人は甘くない、ととにかく脅かしてくる。
確かに大人は甘くない。住民税だって左遷だって慰謝料だってすぐそこに潜んでる。
とはいえ頭を抱えるほど恐ろしいものでもないんじゃないか。
学生たちに恐ろしい言葉で脅かす隣りで、僕は笑ってやりたい。
それはあなたの生き方が下手くそなだけじゃないかって。
大人ってくそ楽しい | mochrom blog

 

その通りだ。そんなに脅してどうするんだろう。

実際、僕は年をとるにつれて自由を得てきた。子どもの頃は、狭いコミュニティと人間関係の中で、勉強か運動か、みたいなできるだけわかりやすい評価軸が全体の多くを占めていた気がして、とても息苦しかった。(きっとそれも、自分がそう思い込んでいただけなんだろうけど。)

だけど、高校や大学に進んで、人間関係がリフレッシュするごとに、これまで自分が知らない価値観や考え方を持った人と出会って、少しずつ自分の中での評価軸も増えていった気がする。いろんな方向で頑張れば良い気がしたし、ひとつの面だけで人間性は決まらない、ということに気づいて、とても気持ちが楽になったのを覚えている。

そして、大学入って就職するまでは「結局、自分は何ができるのか、全く実感も自信もない」みたいな、今なら「そんなに思うなら学生のうちに会社のひとつでも作っておけば良かったんじゃん?」と思えるような、無駄な焦燥感でいっぱいだった。

 

社会人になったら、本当自分は小さな世界で、小さな物事にこだわって、自分で勝手に自分を疲れさせていたことに気づいた。頑張れば報われることもあるし、うまい棒100本だって余裕で買える。

この「自由な感覚」は結局は、人との出会いとお金を稼ぐという両方から得られてるんだと思う。だから、いろんな人と出会いたいと思うし、仕事をして、責任を果たして、お金を稼ぐことで自信と誇りをわずかながらでも得ていきたいと思う。

 

世の中はとても複雑で、多様で、面白い。「世の中には2種類の人間がいる」なんてことを言っている人がいたら、そんな人の話は聞かなくて良いと思うよ。

 

精神的なバランスを保つために必要なのは気づくこととスルーすること

誰でも仕事で落ち込むことはあるでしょう。リセットする間もなく、次々と降りかかる無理難題をクリアし続ける必要がある現代のビジネスシーンでは、うつ病はどんなに強そうな人でもある日突然かかる病気です。人の心は弱くて脆いのです。
職場へ向かうすべての人へ送る、仕事がデキて「うつ病」にならない10のリスト

仕事でもプライベートでもいろんなことがあるけれど、うつになる原因って、人との関係性悪化と自信喪失なんじゃないかと思う。仕事ができない→上司に怒られる→周囲から冷たい目で見られる、みたいなスパイラルに入って、自信がなくなって精神的にダメージを受けていく。

だから、仕事の失敗については正しくフォローしてコミュニケーションの問題にならないように注意が必要だと思っている。事実に基づいた確認を行うとか、人間性でなく仕事内容に対して指摘するとか、失敗しても次の機会を与えるとか。

そして、一番重要なのは周囲が気づいてあげることだと思うんだよね。ちなみに、うつ病の初期状態というのは自覚症状がない場合が多いそうだ。そして、手遅れになるぐらい精神的なダメージを受けて、仕事に大きく支障が生じるようになってからやっと自覚する。

こういうことを知っていれば、周囲の人も気づけるんだと思う。逆に知ってないと、気づくのも難しい。遅刻気味なメンバーに対して、「あいつ最近遅刻ばっかでたるんでんな」と思うか、「何か仕事でうまくいってないことがあるんだろうか」みたいな兆候と捉えるかで接し方も全然違うし。早めに気づいて、問題を一緒に解消する努力をすることが、結果的に早めに回復できる。意外に、上司じゃないチームメンバーとかの方が気づきやすかったりするね。

 

あと、文句を言わずにはいられない人も世の中にはいるので、そういう人の言葉はスルーする。あまり気にしないようにする努力も必要なんだと最近は気づいた。自分に悪影響を与えそうな情報は、意識的に遠ざけてみたり。力が発揮できそうにない環境からは、ちょっと距離を置いてみたり。昔はそういう行為は逃げることだと思うし、負けを認めることだとも思っていたけど、自分が全てのフィールドで活躍できるわけではないし、逆に世の中にはたくさん場所がある。だから、意識的にそういう努力をすることで、自分の精神的なバランスを保つのって大切だなあと思う今日この頃。うまくできてないことの方が多いけど。

 

気づくこととスルーすることって、相矛盾するけど、いろんなことを意識することで気づくようになるし、気づいたとしても意図して思考から追いやることで、スルーできるようになる。そんな気がする。モチベーションを含めた精神的なバランス感覚というのは、結局、長い人生の中で、継続して自分の生産性を保ためにもとても重要だと思うのですよ。

仕事とゲーミフィケーション

コンサルとかIT業界なんてのは、人の入れ替わりが早いので、どんどん人が来ては去っていく。そろそろ自分も転職なんて考えるべきかしら。

それはともかく、転職してうまくいくかどうかについては、以前書いた。

中途入社の罠 | Synapse Diary

だいたいこれで言いたいこと書いてるわ。今日はその先というか、違う側面から考えてみたい。

 

何人かみると、どうやらこの壁を破って伸びる人とそうでもない人がいるんだよね。そういう人は、過去の培った経験とかプライドと折り合いをつけて、確実に前へ進もうとする。自分の現状と求められているスキルのギャップを正面から捉え、上司のスキルを貪欲に吸収しようとする。やっぱりこういうとき思うのは、転んでもちゃんと前を向けることなんだろうと思う。素直に受け入れるというか。

逆に自信を失くすと、自分の意見を発言しなくなるし、本来持っているはずの力を発揮しづらくなっちゃうし、ふと立ち止まって、転職とか世の中にある無数の選択肢を考え始めて迷走したりして、「あーこの先どうしたもんか」みたいになる。無駄に時間が過ぎているような焦燥感も生まれたりして。どんどん考えていることが重くなってしまう。

 

以前、自分も仕事の楽しさみたいなのがよくわからなくなって、誰かに酒の席で「仕事の何が楽しいか」と聞いたことがあって、そのとき誰かが言った答えは「壁を超えた瞬間を感じたとき」だと言っていた。ああ、そういう風に楽しめばいいんだーと思った。それに、昇進や昇給なんてゲームみたいなもんかな、と気楽に考えたりしている。ドラクエでレベルアップするとちょっと嬉しい、みたいなのと同じ。実際は生活もあるし、いきなり職を失ったら困ることもたくさんあるんだろうけどね。

ゲーミフィケーションという言葉が流行っているけど、会社で仕事をこなしていく中で、仕事をする目的を探すことも大切だし、自己実現も大切だけど、それをうまく見つけられない時期もあるし、心が疲れて迷うときもきっとある。そういうときは、ちょっと楽しいと感じられる瞬間や目標を少しずつ積み重ねて、肩の力を抜いて歩いていこうじゃありませんか。僕は今、悩める同僚にそう言いたいのです。

 

社会人じゃなくて、就活する前の学生は、これ読んでおけ。

「楽しい!」を仕事にしよう。/知的労働の急激な陳腐化とゲーム化する「仕事」 – デマこいてんじゃねえ!

大学生の4年間ってなんだろうね

なぜいまどきの大学生はバカなのか – bluelines

これは言っていることに賛成できるのだけど、「自分に自信をつける」ということについて、別の観点から書いてみる。

自分が大学生の頃を振り返ると、それなりに勉強して、それなりにバイトして、適当に遊んで、って感じだった。「これが大学生の生活」と思って余り深く考えていなかったけど、「もっと真剣に学生時代に打ち込めるものがあったら、就職までに少しは自信ができたんじゃないか?」と思った。

人が自信をつけるというのは、「どこまで本気になってやるか」にかかっているんじゃないかと最近思うんだよね。適当にやってれば、失敗しても「ああ、しょうがないか」と受け流すし、成功しても「ラッキー」みたいな感じになる。

そもそも大学に入る動機って、自分がそうだったから言うけど「とりあえず大学行っておくか」という感じだし、そこで勉強することも、「卒業するためには単位が必要だもんね」という割り切りが一番に来るという、残念な行動原理に支配されている。

そんなんでは、徹夜するほど勉強したりしないし、何かを達成した感じも味わえない。まあ、せっかくのモラトリアム期間なので勉強だけしろとは思わないけど、大学機関とか、社会全体として大学生に、何か大きな期待とかチャンスを与えてるんだろうか、ということは思う。

そもそも社会から見たときに、大学生に何を期待してるんだろうね。いろいろ学んでも、あんまり学部とか専門知識を問わずに「ポテンシャル採用」とかいって有名大学が優先されたり、就職活動が大学3年生の途中から始まったりする現実があるなら、大学の4年間というのは社会的にどれぐらいの意味があるんだろうか。ポテンシャル採用するのなら、高校卒業と同時に企業が採用しても良いんじゃない?

まあ、いろいろ書いたけれど、企業は自分の頭で考えて、自信を持って行動できる人を求めているので、大学のうちに何かひとつでも、「これは真剣に打ち込んだ」ということを作っておくことが重要な気がします。そうやって頑張った記憶と結果を積み重ねることが、自信につながることは、社会人になっても何も変わらないので。

岐阜近辺の方は、幸いにもこういうNPO法人もあるようなので、こういう社会とのつながりを肌で感じて経験値を増やすのは良いかもしれない。

インターンシップを(愛知,岐阜,三重)でホンキでしたいなら-岐阜のNPO法人G-net

もう一度就職活動するならどういう選択をするか

これに触発されたので書く。特に、地方にいる学生向け(自分がそうだったので)。

いま大学生だったら、どういう人生を選ぶか? – はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

もう一度学生に戻ったらどういう選択をするか

今学生に戻れるのなら、起業を考えても良いのかもしれない。大学生の早い段階で起業というオプションに気づけたなら、とりあえず学生起業として何かネタを探した気はする。

就職を間近に控えた学年になっていたら、どこかでインターンをするだろうな。

(就職する場合)どういう企業を選ぶか

まあ、これは多分正解はないと思う。企業に入ってもいまいち花が咲かず、転職して輝いた人も見てきたし。一度で正解に辿り着こう、という心構えがそもそも間違いなのかもしれない。

それでもあえて、どういう基準で企業を選ぶか考えてみる。自分なら、勢いを感じるベンチャー企業か、積極的に活動しているNPOぐらいが良いかもしれない。大企業でも、人の出入りが激しいところは刺激がありそうだ。

社会人になってからは、社会の変化スピードが早いから、硬直的でゆったり仕事をしていると、自分のスキルがどんどん陳腐化するんじゃないかって感じる。だから、スピード感がある組織が良いだろうな、と思う。安定なんて求めても、多分ない気がするし、30年以上硬直的なスキルと経験を磨いたって、そこで倒産したら突然人生が不安だらけになる。安定志向とか、捨てた方が良いんじゃないかな。

学歴という現実を受け入れる

日本社会はれっきとした学歴主義で、企業の説明会とかも、有力が大学から順番に行われたり、レベルが低いと思われる大学にはそもそもアプローチすらしてこなかったりする。こんな当たり前のことも、学生の頃はちゃんと知らなかったな。しかし、最近の就職活動はWebでエントリーとかできちゃうから、いろんな人に可能性があると思って大企業に集中してるらしいけど。

まあ、学歴なんて社会人になればあんまり関係はなくなるけど、レベルが高い大学の方が選択肢が多いのは間違いないとは思う。

就活時期の自分に言ってあげられるとすれば、どの企業に対しても可能性が無いわけじゃないけど、大学によって企業は人を選ぶという現実があるのだから、無駄と思うようなことにエネルギーを割くのはやめなさい、ってことだな。

自分の可能性を広げるなら東京か、あるいは海外へ

語弊を恐れず言えば、東京とそれ以外では雇用機会は随分違う気がしている。東京に行って感じたのは、「情報量の多さ」だ。就職活動をしても、東京と地元では企業の説明会の数も違うし、東京と大阪でしか説明会などの門戸を開いてない企業は結構ある。(東京以外の可能性を日本のどこかに作りたいという気持ちはあるけれど、残念ながら今はそういう適した場所が国内で思い浮かばない。。。。)

もっと言えば、これからの社会を考えるなら日本という枠組みじゃなくて、海外を志向した方が良いのかもしれない。いきなり海外の企業に働くのがハードル高いなら、外資系企業や日本のグローバル企業を選び、海外赴任を前提とした職選びも、自分の可能性を大いに広げそうだ。

今大学生の人たちは、無限の時間と可能性がある。なんとうらやましい。

最後はやっぱり意志の強さで決まる

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こないだ、新しい組織に入ったらそこの価値観を把握するよう努めることを書いたけど、新しく加わるかどうかに関わらず、結局物事の方向性を決めるのは、最後は誰かの強い「意志」なのだと感じる日々。どれだけデータを集めても、どれだけロジックを作っても、決定者や実行する人たちにやる気がない場合は、頭ではわかっていても心に響かず、物事は進まず結局頓挫してしまう。

昔、友人と起業を企画したことがある。酒飲んで、アイデアがひらめいて、「やろう」となったまでは良いけれど、結局誰も本気じゃなかったんだよね。楽しそう。でも今の仕事や生活の時間を大きく削ってでもやりたくはない、っていう。結果は見るまでもなく、すぐに頓挫して、企画はフェードアウトした。

それは一例だけど、「やろう」と思って始めてみたものの、軌道に乗らずに頓挫することって結構ある。これまでも何回もあった。企業内勉強会とか、新しい企画会議とか、組織改革ミーティングとか。

強制力が働かない物事の成否は「本気度合い」に依存する

仕事は責任があり、組織があり、関係者が多くあり、ということで「やらなきゃ」という制約が生まれる。制約があると、人は否が応でも進んでいける。けれど、「やってもやらなくても良い」というとき、人は優先順位をうまく判断できない。だから、意志の強さが試される。「やってもやらなくても良いけど、自分としてはやりたい」という状況にならないと、物事は劇的には進まない。

細部にこだわってみる

何かを始めるときに、いろいろ細かく決めておくと有効。作業の進め方、ミーティングの場所・時間、困った場合の連絡方法などなど。実行手順があやふやで、時間や労力がロスすると、どんどん人はやる気がなくなっていく。だから、新しい取組は細部まで決めておくと、ちょっとしたトラブルで躓くことはちょっと減る気がするね。

過去に転職で面談したときに、面談相手であるコンサルタントに、「どれだけロジックを重ねても、最後は経営者のWill(思い)で決まる」と言われた。確かにそうだ。

妙に賢くなると、リスクとかやれない理由が先に回っちゃう。そうじゃなくて、ロジックで割り切れるところと、そうでないところを見極めて、価値観を重視して進めていくのが、新しく混沌としたところに飛び込むコツなんだろう。結局最後は、人の意志ですよ。