ああ、今日も細かいミスをたくさんしてしまった。昔から、それこそ小学校ぐらいの頃からケアレスミスが多くて、自分でうんざりしている。大学院の研究時も教授に指摘されたし、社会人になっても未だにその癖は直っていない。
細かいミスについて、今日読んだこの記事が面白かった。
ミス魔だった私がノンミスに変わった方法 » R-line DESIGN |
この記事に書いてある通り、確かにいろんな工夫によって僕もミスをする確率は減った。それでも少し気をゆるめたり労力を惜しめば、またミスは増えていく。つまり、確率論として作業をすればするほどミスは混在してしまうし、それを防ぐための労力をかければ、減ることを学んだ。
ミスを完全になくすためにはそれ相応の労力が必要になる。そして、パレートの法則ではないけれど、最後の数%を根絶するところに大きな労力を要する。「ミスがある」ことを証明することは簡単だけど、「ミスがない」ことを証明するのは不可能だからだ。これを考えると、どこかで費用対効果のバランスがあると思うんだよね。
確かにミスはよくない。ゼロにすべきだという人もいる。僕もそう思う。ひとつのドキュメントでたくさん誤植があると、「ちゃんとチェックしたのか」と言いたくなる。些末なミスというのは、そういう品質や印象に関わるのだ。だけど、僕は人はミスをするものであり、それを根絶するには多大な労力を要すると考える。だから、どこまで労力を費やして品質を上げるべきかは、常に考えてしまう。だって、品質管理で有名なシックスシグマだって、欠陥をゼロにするわけではないんだよ。
もうひとつ僕が気になっているのは、なぜかミスに「気づける人」と「気付けない人」が存在するという不思議だ。同じ文章を同じように読んでいるのに、よく気づく人は高い確率で気づく。この傾向は、個人の意識がどこに集中しているか、というところにもよるだろうけれど、やはり個人の特性に依存する部分も大きいのではないかと最近は思っている。
というわけで、僕が言いたいのは、ミスは人間が作業する以上決してなくなることはないので、どこまで労力をかけるか(逆にどこで諦めるか)の線引きが必要になるということ。そして、個人の品質向上に依存するのではなくて、個人の適性も含めて、組織全体としてミスを減らしていくような仕組みを作ることが重要なんじゃないかと思うわけです。
といいながら、自分の今日のミスを戒めることにします。