【書評】アマゾノミクス データ・サイエンティストはこう考える

「データは第二の石油」であるといわれているほど、データの重要性が増しています。膨大に増えていくデータによって、新しいビジネスが登場したり、様々なことを知ることができるようになって、生活が豊かになっているように感じます。しかし、その反面プライバシーが簡単に侵されたり、ネットで炎上するなど、これまでと違った弊害も出てきています。

このようなデータ社会で、どのような仕組みが必要か、各個人にはどういう対策が求められるのか。それを考えてみたくて、この本を読みました。

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過去にアマゾンのデータサイエンティストだった人が書いた本です。

アメリカで非常に評判になっている本だという事ですが、タイトルが分かりづらいように思います。ちなみに洋書のタイトルは「Data for the People」です。

これからのデータ社会によって、どのような要素が求められるのかを考えさせられる良い一冊でした。

 

増加するデータ

もう当たり前に広く認識されていますが、世の中はあらゆる場面で様々なデータが増えています。ただ、こう書かれている数字をみると、改めてすごいスピードでデータの生成量が増えているのがわかります。

受動的か積極的か、義務的か自発的か、正確かおおまかかといった違いはあるにせよ、こうしたものをすべてひっくるめたソーシャルデータの量は指数関数的に増加している。今日ソーシャルデータの量は、一八カ月ごとに倍増している。五年も経てばソーシャルデータの量は約一〇倍、つまりケタが変わっているだろう。そして一〇年後には、およそ一〇〇倍に増えているはずだ。言葉を変えれば、二〇〇〇年に丸一年かけて生みだされたのと同じ量のデータが、今ではたった一日で生み出されている。現在の増加率が続けば、二〇二〇年には同じ量が一時間以内に生みだされているだろう。

 

パソコンやインターネットが普及し、さらにスマートフォンやウェアラブルデバイス、IoTが発展してきており、様々な生活やビジネスなどあらゆる行動においてデータが発生するようになっています。

昔よりも簡単に知りたいことを調べることができますし、他人の行動を知ることもできますし、ビジネスで深い洞察を得ることもできますし、自分の健康データもわかるのです。データの増加と活用について、目覚ましい変化が起きています。

 

増大するデータから発生する価値観の変化

このように、膨大に増え続けているデータが社会生活に広く影響を与えてきており、その結果として、様々な社会規範やルールなども見直される必要が出てきています。わかりやすいのはプライバシーの問題でしょう。

大量のデータによって、個人の趣味・嗜好や行動などあらゆる状況が把握される可能性があり、それは政府や一部のデータ会社に偏在しています。

例えば、街中に監視カメラが設置され、犯罪捜査に活用されることも珍しくなりました。

このあたりの動画をみると、データを握られてしまうことが、個人の権利が不意に侵される可能性と、その恐ろしさが理解できるでしょう。

 

一方で、逆の観点も著者は提示しています。

過去一〇〇年にわたり、われわれはプライバシーを大切にしてきたが、そろそろそれが幻想にすぎないことを認めるべきだ。われわれは自らの関心、帰属意識、コミュニケーションを管理するためのツールを望んでいる。

プライバシー権というのが既に社会で確立されていると考えていて、それが大量のデータで脅かされる危機が高まっています。ただ、本書で書かれているのは、そもそもプライバシーという概念自体がそれほど古いものではなく、これほどのデータ社会を前提とした価値観ではないと説いているのです。

 

データリテラシーが必要

データ社会がここまで発展しているのは、データが増えることで多くの人が恩恵を受けている事実があります。

ソーシャルデータ革命とかかわりのない個人は一人もいない。そしてソーシャルデータから恩恵を享受したければ、自分に関する情報も共有しなければならない。これは断言できる。データを社会化することによるメリットは、たいてい意思決定能力の向上というかたちで表れる。何らかの交渉をするとき、製品やサービスを購入するとき、融資を受けるとき、仕事を探すとき、教育や医療を受けるとき、そしてコミュニティを良くするために、より良い判断ができるようになる。

ソーシャルデータの飛躍的増加によって、過去に例のない可能性が拓けるのは確実だ。どのような水準に達したら、個人的被害が大衆の利益の総和を上回ったと判断されるのか。ユーザーのプロフィールの編集履歴が偶然、あるいは悪意ある者の手によって友人や同僚にシェアされると社会的評価に傷がつくという理由で、婚活サイトでデート候補の編集履歴が閲覧できなくてもあなたはかまわないだろうか。

僕らは既に、こちらがデータを提供すれば便利なサービスを提供してもらえる体験を、たくさんしています。なので、いまさらその利便性を手放すとも考えられず、その利便性を実現しながら、個人の権利が侵されないようにコントロールする新しい社会の仕組みが求められているんだというのが、本書の主張です。

というわけで、データが大量に生成される社会では、新しい社会規範が必要になります。データを生み出すのは止められないし、データから生み出される画期的なサービスの利便性は享受したいし、データの集中管理によって不用意に権利が奪われるようなことはしたくないからです。

そこで求められるのは次の点だと著者は説きます。

今後ユーザーは、自らの投資に対してどれだけの価値を得られるかだけでなく、安全性リスクやプライバシーコストに対してどれだけの価値が得られるか、という包括的な視点でデータ会社を見られるようになるだろう。

プライバシーをはじめとする、自分の権利を確保しつつ、データを提供することによるメリットを享受する。そのバランスが求められており、「自分のデータを誰に提供することが、自分の利益を最大化できるのか」を見極める必要が出てきている、ということです。

 

他にもたくさんの具体的な示唆を提示しているのが本書の特徴です。どんどん強大になっていくデータ会社に対してどうガバナンスを高めていくか、など新しく求められる社会の仕組みを考える上で、良い本でした。

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