閉じこもるインターネット

僕がGoogleで検索した結果は、もうみんなと一緒じゃない。

最近感じていたネットに対する何となく気持ち悪い感じが、この本で少しわかった気がした。GoogleやAmazonは広大な情報から効率的に各個人に合った情報を届けるためにパーソナライズをしている。それが、類似した情報しか提示しなくなることで、僕らは気付かない間に狭い世界に閉じ込められているのかもしれない。

 

「無知の知」をどう自覚するか

人間は、自分が知っている世界のことは理解できるけど、全く知らない世界については認知することもできないし、知りようがない。僕らが刺激を受けながら、知識を増やし、世界を広げていくためには「知らないこと」を知ることが必要になる。

だけど、過剰なパーソナライゼーションは僕が興味を持ちそうな似たような情報しか提示してくれなくなる。人は同じような情報に多く触れれば、それを信じる傾向がある。パーソナライゼーションは確かに便利だけど、知らない間に自分が取得している情報が「閉じている」という自覚を持つ必要があるのかもしれない。

僕らは何かに偶然出会うことで、刺激を受け、新しい何かを生み出している。音楽のプレイリストと同じで、ある程度傾向は似通って欲しいけど、似過ぎていると新鮮さがなくなって、面白みに欠けてしまうのだ。情報についても、セレンディピティを生み出すような仕組みが、今後のネットではもっと重宝されていくのかもしれない。

 

共通認識をどうやってつくるか

新聞やラジオ、テレビが登場してきたこれまでの時代は、マスメディアが情報を提供し、民衆はそれを元に考えてきたのかもしれない。だけど、今マスメディアの力はインターネットによって相対的に低下している。インターネットはたくさんの情報が溢れているし、かつそれは各個人に適したコンテンツになっている。

一見それは心地よいのかもしれないけれど、一方で僕らはどうやって共通認識をつくっていくんだろう。どういう社会をしていくのか。どういう国にしていくのか。政治に何を求めるのか。バラバラでそれぞれが適したコンテンツを消費していく時代に、何かを変えていくための勢いをもたらす、コンセンサスをつくるための「場」みたいなものが求められているんじゃないだろうか。

結局のところ、民主主義が機能するためには、我々国民が狭い自己の利益以外のことまで考えられなければならない。そのためには、我々が共同生活をしているこの世界について全体像を共有している必要がある。P.199

 

企業の役割が見えづらくなっている

インターネットは情報を個人の側に引き寄せることで、行政などの権力構造から個人へのパワーシフトが行われていると言われた。確かにそれはその通りかもしれないけれど、その中間にもっと違う変化を引き起こした。これまでは、各企業がバラバラに情報を取得していたり、行政機関が保持していたデータよりはるかに多い情報を、特定の民間企業がプラットフォームの利を活かして取得するようになった。

これまでは行政機関やマスメディアの免許制など、わかりやすい権力構造だったのかもしれない。でも、これからはイチ民間企業が膨大な情報を握り、それを元にサービスを組み立てたり、逆にどこか別の企業に売買したり、警察権力などの法権力に知らない間に提供しているかもしれない。

 

変化が劇的に生じている中で、社会における企業の役割が変わってきている。こういう事例が出てくるのも、そういう一環だと思う。

米グーグル:検索予測差し止め命令…東京地裁仮処分

まだまだインターネットの世界は完璧ではないし、実社会とのリンクも濃密になっている。もっと変わっていくだろう。その変化の方向は、この本で提示された危惧を内包するのだろうか。

しかし、インターネット時代になっても事実をゆがめる力を政府が失うことはなかった。ただしやり方は変わった。ある種の言葉や意見を禁止するのではなく、キュレーションや文脈、情報の流れ、注意力の方向性などを操作する2次的な検閲が増えている。そして基本的にごく少数の企業がフィルターバブルをコントロールしている現状から考えると、このような流れを一人ひとりについて調整することも難しくないはずだ。インターネットは中央集権を破壊するものと草創期に期待されたが、ある意味、中央集権を助ける働きも持つようになってしまったと言える。P.172

 

20120823追記:

この本のサマライズみたいな動画がTEDにあった。