今日はダラダラ書く。
世の中には、広く議論しやすいことと、しにくいことがあるんじゃなかろうか。
例えば、原発問題は何が「問題」なんでしょう。
原発の技術そのものが人類の限界を超越しているから?
原発で万が一事故が起こると、その周辺は人が住めなくなるから?
原発を止めると、他のエネルギーで賄わなければいけないけど、それが大変だから?
東電の安全管理体制や、事故後の対応がまずいから?
政府とメディアと学会と東電が、みんな結託してるから?
放射能ってよくわからないけど、人体に影響がありそうだから?
福島の事故が、チェルノブイリと同じレベル7だから?
まあ、いろいろあるんでしょう。どれも問題だと思う。だけど、それぞれベクトルが微妙に違っていて、発散してしまってる印象もあり。あと、これまでエネルギー政策そのものが理系の範囲で、理解するの面倒だし、あまり興味なかったけど、フタを開けてみたらこんな感じになっているので、いろんな情報が錯綜して、議論の量が増えているんだと思う。
あと、政治に関していえば、誰かが辞めたとか、誰かがこういったとか、相変わらず「政局」に関する話がメインになっている(というかそれがほとんど)けど、これも政局の方が政策より「議論しやすい」からなんじゃないかと思ってしまうんだよね。「誰が」というのも大切かもしれないけれど、「何を」という点も忘れちゃいけないんじゃないの?と思う毎日。
例えば復興政策ってどうなっているんだろう。大衆メディアのニュースでは本当よくわからんよね。どこかのコンサル会社が入って復興計画を建てているとか聞くけど、実際にどういう方針で、どこに問題が潜んでいる、とか、ちゃんと体系だって説明された報道をほとんど見かけない。
何が言いたいかというと、人は「自分がわかりやすいこと」を中心に議論を展開しようとする傾向があって、難しいことについては、余り触れないか専門家任せにしてしまっている感じがするんだよね。
だけど、そこで理解したり伝達するのを諦めてしまうと、本当に重大なことを見落としてしまう可能性がある。だから、分かりづらいことにぶつかったときは、噛み砕き、わかりやすい話に置き換え、人に伝達する技術が必要になる。
「わかりづらい」ことと「わかりやすい」ことの間には、優秀な翻訳者が求められるけれど、それが結構おざなりにされている気がするんだよなあ。池上さんがブームになったのは、そういう「翻訳」というあまり技術として認識されづらいところに、価値が見出されたからだと思うし。
今のメディアに求められているのは、そういう「わかりづらい」ことを「わかりやすい」ことに変換しながら、いろんな角度から検証してくことであって、横並びで同じ報道を、同じスタンスで繰り返すことではないと思うわけですよ。ネットから的確な情報を拾うのもまだ難しいし、マスメディアの影響力が未だ大きいはずなのだから。
今後は、こういう変革がもっと起こることを期待する。
大西 宏のマーケティング・エッセンス : 変革は辺境からやってくる – ライブドアブログ 大西 宏のマーケティング・エッセンス : 変革は辺境からやってくる – ライブドアブログ |