「批判をするなら対案を出せ」の本当の意味

さて今日は、最近書いていなかった組織論の話です。

簡単に言うと、「批判をするなら対案を出せ」というのが、どういう意味があるのかということを考えてみたいと思うのです。このあたりをうまく考えられていない事例がたくさんあったので、自分の考えをまとめておこうと思った次第です。

 

「批判をするなら対案を出せ」は正しいのか

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これを書こうと思ったのは、選挙もちょっと関係があるのですが、「あの政策はダメ」「この数字は現実的ではない」という批判が飛び交いますよね。それって、どうなんでしょうって思うことが多いのです。僕には。

で、僕の中でまず前提にあるのはこれです。

  • 批判だけして良いのは、対等な関係にない人だけ
  • 対等に問題を共有する人は、対案を出して抱えている問題の解決にコミットしなければいけない

組織でいえば、部下は批判だけしても良い場面があると思っています。対等ではないですし、経験が不足している場合もあるでしょう。もちろん対案出してもらう方がとっても良いのですが。

一方で、同じぐらいの責任を負っている人同士の議論であれば、批判だけではダメです。対案を出して、「自分ならこうする」というものがないと、問題の解消に至らないからです。

 

批判だけする人は、自分の責任を理解できていない

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批判だけする人に対しては、僕はそう解釈します。だから、組織に批判だけする人がいた場合、「ああ、この人は組織が抱えている問題を解消しよう、という責任を理解できてないんだな」と思ってみています。

だから、結局「自分の責任はどこにあるのか」を理解できていることが重要になるんですよね。

参考:仕事を円滑に進めるために「責任範囲」を理解する

自分の保身を考える人は責任範囲を小さくしがちですし、いろいろ言いたい人は他人の責任範囲にも口を出します。だから、組織がこじれることがあるわけですが。それぞれが適切に責任範囲を理解し、コミュニケーションができていれば、仕事もスムーズに進むんじゃないでしょうか。

 

こないだ知人と、「失敗を部下のせいにして、保身する人がいるが、それは自分の責任を理解していないからだ」という話になりました。管理責任というのは時に曖昧になって、都合良く解釈される場合もあります。普段から意識しましょう。

あと、「対案を出せ」っていうのも人を選んで言った方が良いですよ。

 

 

全然話が変わり、最近「プラマン」というプラスチック製万年筆を買いました。太字気味なのはちょっと気になりますが、書き味はちょっと癖になりそうです。書きやすいサインペンと考えれば、良いかもなと思いました。昔からある人気商品みたいですね。