希望を捨てる勇気

池田信夫さんの最新刊。期待して読みましたよ。自分には結構難しいこと書いてあるけど、面白いことが書いてあったのでメモ。
 
 
日本の労働生産性は落ちている
 
マクロ視点で考えたとき、労働生産性が重要になってくる。つまり、投入した人的資本に対して得られるリターンが高いほど、国の経済は成長していることになる。それが、年々低下しており、OECDでも相当低いランクなのだそうだ。
 
これまでも廃れた産業はたくさんあるけれど、そういうときは必ず雇用調整が発生して、労働生産性の低い産業から高い産業へ、人的資本はシフトしてきた。それに一役買っていたのが、国家。国が労働生産性が低く、収益が低い、もしくは雇用自体を確保できない産業に従事する人に対し、雇用が見込まれる産業へシフトする支援をしてきた。
 
 
自分の産業はどれぐらいの労働生産性なのだろう
 
マクロ的視点だけ考えれば、なるほどね、で終わるのだけれど、自分に当てはめてみると改めて考えさせられる。自分の仕事は、果たして労働生産性が高い仕事なのだろうか。正直、ITサービスはよく分からない。ITを使うことによって生産性は向上するのだと思うが、ITサービスを構築・提供すること自体は、それほど高い生産性を実現できてないのではないかと思っている。
 
ゼネコンと同じ多重化階層になっており、コスト削減の圧力を下に受け流し、SIerは存在している。また、プログラム言語なんて日本人じゃなくても書けるし、インドや中国で開発できる昨今では、ITスキルだけではどんどん海外の低コストに引きづられて、下がっていく一方な感覚がある。
 
 
生き残っていく上で何を考えればよいのだろう
 
本著では、「派遣切り」を非難し正社員を増やす戦略を行うと、雇用の柔軟性が失われ、企業は人を採用しづらくなるため、結果的に雇用は増えなくなると説いている。なるほどである。偽装請負など、一部で聞かれるような悪質な待遇と、派遣社員の雇用切りを一律に扱ってはいけないのだろう。
 
これを考えると、今後の社会で生き残っていくには、いつクビになっても大丈夫なように、スキルを磨き、場所や企業を変えても賃金を獲得できる人になることが求められる。もしくは、正社員として企業にしがみついて、仕事ではなく趣味に生きることが良い人生と言われるのだろうか。
 
できるならば、胸を張って仕事をしていたいので、前者でありたいと思う。

なぜこの会社はモチベーションが高いのか

従業員は、自分からどういうアプローチでモチベーションを上げられるか、また今の自分の企業を振り返り、自分の求めている企業として今後も勤めても良いか、考えてみると良いだろう。

経営者や上司の振る舞いが最も重要

モチベーションが低くなる要因として、経営者や上司の人間性に失望する、自分が経営者や上司に大事にされていないと思った、というのが最も高い。賃金や福利厚生などの待遇などを差し置いて、最も高いそうだ。

それぐらい、経営者や上司の振る舞いはものすごく重要であり、部下がいる人は「常に見られている」という意識を持つ必要がある。これは、「人間として完璧でなければならない」ということと同義ではない。自分の欠点も認めながら、部下も個人として尊重する、ということである。「この人は自分を見てくれていない」「いざというとき、この人は裏切る」という失望の気持ちを抱かれたときに、モチベーションの低下は始まってしまう。

継続して積み重ねないと定着しない

読んでいくと、どの企業も当たり前のように企業の理念を作っており、またそれをどう浸透させていくかに大きな労力を割いている。手段はいろいろあるが、大事なのは継続しないと定着しないし、積み重ねによって人の心は変わり、組織は強い方向性を打ち出して動いていく。

「外部講師による研修は素晴らしいのですが、その場だけ感動して忘れてしまい結果としてやりっ放しになってしまう」との考えから、繰り返し何度も同じ研修を受けることができるようにと社員に講師をさせるのです。

アウトソーシングが叫ばれて久しいが、改めて何を自分たちの中で抱えて、何をアウトソーシングするかは考えなければならない。継続的に確保する必要がある知識や価値観については、内部で醸成してゆく仕組みが必要なのだ。

実際読んでみると、ああ、こういう良い企業があるんだなーと明るい気持ちになる一冊。

坂本 光司
商業界
売り上げランキング: 291

あわせてどうぞ。

出版業界はこれからパラダイム・シフトを迎えるのかもしれない

DSCN1946.JPG

出版業界が熱い。今がまさしくパラダイム・シフトの始まりなのかもしれない。いろいろ気になるトピックがあるが、少しずつ整理してみる。
 
 
デジタルのコンテンツ台頭
 
変革の中心にいるのは、Googleである。Googleは、著作権が切れた(パブリック・ドメイン)出版物を無償公開するプロジェクトや、電子書籍の課金システムを構築するなど、広告に次ぐビジネスモデルとして、出版業界に目を向けている動きがある。

Google、100万冊以上のパブリックドメイン書籍をEPUB形式で公開
Google、電子書籍の販売に乗り出す オンライン書店立ち上げへ – ITmedia News

著作権の整備が各国で問題になっているが、技術的に可能であり、ユーザに利便性をもたらすものであれば、それは法整備が追いついていないわけであり、今後揉めることはあっても、大きな流れとしてデジタルコンテンツがもっと売上を伸ばすのは間違いないだろう。デジタルコンテンツであれば、コピーが用意でコストが低く、ユーザは自分が興味あるものを検索できたり、遠隔地であってもリアルタイムで情報を取得できるようになる。
 
日本では、エニグモ社が雑誌の通販とデジタルコンテンツのセット販売を行う「Corseka(コルシカ)」を10/7に公開した。現在は、日本雑誌協会からの意見申し出を踏まえて、サービスを中断しているが、今後もこのようにデジタルコンテンツを取り扱う企業が出てくるだろう。
 
 
紙としての出版物はどうなる?
 
可読性という意味では、やはり実物である紙媒体には適わないと思う。また、人間は実体があるものに愛着がわく、という面もあるので、そういう意味からも紙媒体の出版物が完全に淘汰されることはなく、激減することもないと思っている。
 
ただ、流通形態が変わることは大いに考えられる。またしてもGoogleだが、オンデマンド製本サービスを始めようとしている。
 
出版界の破壊神か創造主か?グーグルが 目をつけたオンデマンド製本の正体 | ビジネスモデルの破壊者たち | ダイヤモンド・オンライン

デジタルデータから、およそ5分で1冊製本まで行ってしまう機械だそうだ。Googleは当面パブリック・ドメインの出版物を対象に導入を試みるようだが、こんな技術が可能になると、出版業界は劇的なビジネスモデルの変更が行われる可能性を秘めている。
 
注文から製本までの時間を短縮できるとなれば、必要な在庫量を減らせることにつながる。現在の日本の出版形態でいくと、出版数はある程度は予測で決めており、その配分の権限は、取次ぎに大きく与えられている。売れ行きが好調な出版物は再度印刷されることになるが、出版数とタイミングは必ずしも現場とうまく噛み合っておらず、書店としては欲しい分の量を確保できずに、売上機会をロスしている場合も多いと考えられる。
 
最近は、POSの導入により売上実績は正確かつリアルタイムで把握されているが、それでも流通におけるロスは、小売業や製造業ほど進化しているとは言いがたい。今までネックだった、製本までのタイムラグ、及び在庫ロスのリスクを、こういった機械が減らすことで、効率的・効果的な配本が可能になる。
 
 
書店は売上に更なるコミットメントを求められる
 
出版業界は、出版社が書店に対して販売を委託している。書店は返品がきくので、返品期限させ守れば在庫リスクはない。これが、書店の乱雑な発注状態を生んでいることは否めない。在庫リスクがないから、売上機会ロスに注力することにより、多めの発注傾向があるように思われる。それがあるから、取次ぎが配本で「適正」とみなされる数にカットする、という役割を担っているともいえる。(ただし、返品率はチェックされており、これが高いともちろんどんどん配本は削られていくが。)
 
このような委託販売制を見直す動きとして、責任販売制が一部導入されている。書店の売上マージンを22~23%から35%に引き上げる代わりに、返品するにつき代金の一部を書店が負担する、というものだ。不用意な発注により売れ残りが出ると、書店にも損が生じるという、売れ残りを回避するインセンティブを働かせる仕組みである。
 
責任販売制度の「35(さんご)ブックス」 – Media & Communication 編集長ブログ

こういう制度が導入されると、書店はより「ちゃんと売り上げる」ことにインセンティブを働かせるようになる。自分の書店の客の傾向を把握し、どの程度売れるかを予測し注文する。注文数が叶えられる代わりに、返品にもペナルティが課されることになる。
 
 
新しいビジネスモデル、特色ある書店
 
デジタルコンテンツの台頭、製本までのタイムラグの短縮、再販制度の見直しが今後も進むと、大型書店に一層集約される傾向が高まるのではないかと思っている。
出版物を購入する手段は、主に3つだ。
 
①書店で実物を買う
②通販で実物を買う
③インターネットでデジタルコンテンツを買う
 
一昔前はほとんど①のみだったのに、②や③の手段が広まるにつれて、業界自体の大幅の売上規模拡大がない限りは、①の減少を招く。責任販売制のような、売上にコミットメントできる書店は、ある程度体力がないと持たないのではないかと思う。そして今後は、ひょっとしたら「書店」という枠じゃなくても良いのかもしれない。オフィスグリコのように、お菓子がオフィス内に進出したことで売上を増やしたように、本も「書店」を出ても良いはずだ。特定分野の客を引き寄せる場所に、それに見合った本を置けば、売れる確率は高まるだろうし。あるいは、著作権の整理が進み、デジタルコンテンツを利用した新しいビジネスモデルも出てくるだろう。新刊洪水に埋もれない、特定のカラーを出した書店だってもって増えてもいいはずだ。
 
出版業界は、パラダイム・シフトの胎動が始まっているように感じる。新しいビジネスチャンスも、ここで得られるかもしれない。

本の現場

昔本屋でアルバイトしてたので、内情を想像しながら読んだ。結構楽しめたので、そういう点をメモ。
 
「若者の活字離れ」は幻想
 
なぜか、「最近の若者は本を読まない」というイメージが埋め込まれているが、統計上の数値を見れば、これが誤りだということがわかる。むしろ、40代や60代の読書率が低いそうだ。(そういえば、60を超えた自分の父親も、ほとんど本を読まない。)
 
本の中でも取り上げられていたが、青少年の犯罪率と同じで、完全にメディアによるイメージ醸成の結果だろう。青少年の犯罪率も、戦後から比べると著しく低下しているのは有名な話。
 
やはり昔から、本のターゲットは若者であり、その若者が少子化によって減っていることが、出版業界にダメージを与えているらしい。
 
 
面白い本屋が少ない理由
 
本屋でアルバイトを始めたときに再販制度というものを知り、出版業界は儲けるのが難しそうだな、と思った記憶がある。「書店の品揃えは金太郎飴」という言葉が本書の中に出てくるが、それには理由がある。
 
書店に本が並ぶまでには、出版社が発行して、取次ぎが各書店への分配数を決めて、書店は取次ぎから受け取った本を並べる、という段階が踏まれる。つまり、本をどこにどの程度配分するかは、取次ぎが大きな権限を握っており、書店の自由度はとても小さい。一応書店も注文を出すが、売れ行きがよくなかったり、規模が小さい書店は、売れる本が回ってこないのが現状だ。
 
「自分たちでやればいいじゃないですか」と、アルバイトしていた当時に店長に進言してみたが、「簡単に言うけれど、それはそれで大変なのさ」と説明された。自分たちでやろうと思うと、洪水のように出版される雑誌・書籍(毎日数十点)の内容やタイミングを把握して、自分の書店の売上がどの程度だとか、どういう傾向の顧客が来るとかを加味して、発注部数を決めて・・・・なんてことを、毎日毎日やる必要がある。
 
再販制度で書店の取り分は大方決まっており、年々の出版業界の売上減少から、書店は年々人件費を切り詰めている。書店内の常駐人数を減らしたり、人件費自体を下げてみたり。什器やオーダー機器などの設備投資を見送ってみたり。そんな中で、取次ぎの力を借りずに発注をやり切れるのは、不可能に近い。書店の金太郎飴現象は、結構根が深いのだ。
 
 
それでも「尖った本屋」を目指すには
 
ビレッジ・バンガードという本屋がある。本屋というか雑貨屋というか。名古屋が発祥地だが、今や全国展開している。本を置いているが、その隣に雑貨屋もある。これは、ビジネスモデル的には、行き詰っている書店は見習うべきヒントがある。それは、本だけを取り扱うのをやめる、ということだ。
 
本だけでは高い利益率を出せない。ならば、他のものを混ぜて売るのが有効だ。ビジネス戦略上でいえば、ポートフォリオを組み合わせて、安定的な利益を生み出す、ということになる。
 
本を読みながら考えたのは、いろんな細かいところに本を置いてもらう、という取次ぎの取次ぎ、みたいな業者をやってみても面白いかも、と思った。レストランやカフェなどに、その店のコンセプトに合った本を置いてもらい、店に訪れた客に買ってもらう。1店1店で置く本の量は小さいが、それを束ねる業者がいれば、一定量の売上を見込める規模になるかもしれない。そうしたら、大手取次ぎにだって相手にしてもらえる可能性も出てくるかもしれない。完全に妄想だけど。そういう業者が出てきたら、いろんなところで、場所に合った本を見ることができて、面白いなーと思うんだけど。
 
あとは、完全な委託販売をやめよう、という動きが出てきている。書店への利益率を増やす代わりに、返品を制限する制度らしい。こういう流れは、取次ぎに依存する書店のスタンスの変革を求められることになるだろう。書店への圧迫となるのか、それとも機会となるのかは、もう少し時間が必要だ。

本の現場―本はどう生まれ、だれに読まれているか
永江 朗
ポット出版
売り上げランキング: 32912

あわせてどうぞ。

ビジネス読解力を伸ばす未来経済入門

最近よく読んでいる、小宮一慶さんの新刊。銀行出身の経営コンサルタントらしく、統計数値などをふんだんに盛り込んだ上で、それを踏まえて世界経済や日本の社会構造について、どういう流れになっているかを考察した一冊。
 
取り扱う対象が幅広く、今後の経済動向を広い視点で捉えるには、読んでおいて損はない。ひとつひとつを取り上げると目新しさは少ないけれど、総合的に世界がどういう方向に進もうとしているかが、よくわかるので、広く浅く理解するにはちょうど良い。この手の本はすぐに情報が劣化するので、読むなら早めが良いだろう。興味がある分野があれば、これをきっかけに他の情報を集めるのも良い。

小宮一慶
ビジネス社
売り上げランキング: 997

あわせてどうぞ。

自分の住む自治体の財務を3つの指標でチェックしてみよう

小宮一慶さんの「未来経済学入門」で、地方行政の財務力について書いてあったので、それを踏まえて実際に、自治体の財務力について、どういう指標が用いられていて、どういう風に見ればよいかをまとめてみた。主に、以下3つで大体は把握できると思われる。
 
 
財政力指数(財政の体力はどの程度か)
 
地方交付税の規定により、人口や面積などに応じて算定した、標準的に必要となるお金(基準財政収入額)を、自治体自ら得るお金(基準財政需要額)で除した値。過去3年間の平均値を用いる。この指数が1に近づく、又は1を超えるほど良い団体と評価される。逆に、1未満の場合は、国から交付金が交付される。
 
ちなみに、岐阜県は47都道府県中19番目で、0.51(2007年のデータ)。全体から見れば悪い数値ではないが、優良というわけでもない。
 
参考:財政統計研究所 <財政力指数別・都道府県インデックス2009>
 
 
経常収支比率(どれぐらい自由に使えるか)
 
毎年度経常的に確保できる財源のうち、経常的に発生する費用(人件費、公債費等)を示した指標。高ければ高いほど、財政に余裕はなく、自由に使える財源は少ないことを示す。余裕がある、ということは、戦略転換した場合や、新しい社会情勢が発生したときに、財源を投入する柔軟な姿勢をとることが可能である、ということだ。
 
岐阜県は88.6%で、47都道府県中44番目に低い(2008年時点)。かなり良い状態であるかがわかる。
 
参考:経常収支比率 – ランキングでチェック!【となりの芝生】
 
 
実質公債費比率(収入に対してどれくらい借金あるか)
 
地方自治体の借金である公債費が、自治体の収入に対してどれくらいあるかを示した指標。前3年度の平均値を用いる。18%以上になると地方債の発行の際に許可が必要になる。他にも25%以上超えるとまた制限が加えられるので、18%以上で高ければ高くなるほど、借金をする力=資金を集める力がなくなる、ということになる。
 
岐阜県は、指標が高い順からみて5位(2008年時点)。2006年が32位だったことを考えると、結構余裕なくなってきてる。
 
参考:総務省|平成20年度決算に基づく健全化判断比率・資金不足比率の概要(速報)
 
 
これらを見てみた結果
 
これら3つの指標を見ると、自分が住む岐阜県においては、財務体力は著しく悪くはないと思われる。財務力指数は中間よりやや上であるし、経常収支比率においても、自由度はある程度あるようだ。しかし、実質公債比率が高まっており、今後もこれが一層高まってくると、資金を集める力が弱まり、柔軟に時局に合わせて行政をコントロールできなくなる懸念はある。
 
今回は本当にざっくりした結果を書いているが、これらの指標は、企業の財務分析と同様、他の都道府県の状況を比較したり、経年変化を見る必要がある。そして、できるならば、都道府県と同じように、市町村の指標も見た方が良い。自分が一番身近に受ける行政サービスは市町村だからだ。
 
あの夕張市も、破綻の10年ぐらい前から、経常収支比率などから、財務が硬直してしまっていることは議論されていたらしい。それでも早めの舵きりができなかったと思われる。そういう意味でも、たまにはこういう指標をチェックしてみるのは、安心して住む上で重要なんじゃないだろうか。
 
 
他にも下記を参考:
経常収支比率でみる自治体財政
実質公債費比率

システム運用における減点評価からの脱却

経営思考の「補助線」は、経営を考えるにあたって、そのヒントとなる観点を取り上げていく一冊。比喩的な表現も多く含まれているので、好みが分かれると思う。個人的にはやや読みづらい。ただ、読んだことから気づいた点があったので、考えてみる。
 
 
システムは複雑に相互作用してしまう状態にある

 
本の中で、現在社会はシステムが多く形成され、それが複雑に入り組んでいる、かつそれを利用する人はシステムが安全であるという意識が強い、という言葉があった。どうやら、失敗学の畑村さんの言葉らしい。
 
これは、システム運用こそ真剣に考えるべき。ITシステムだけで考えても、ひとつの会社で複数のシステムが同居しており、それぞれがデータを連携したりする。自分たちが運用しているシステムで起こした障害が、想像もしないところから影響が出たりすることだってある。当然のことだが、システムからのアウトプットが、どこにどう使われるかを把握しておかないと、ユーザに重大な影響を与える事態となる。
 
 
「システムは完璧」であるという幻想
 
自分はIT系の仕事に従事しているので、ITシステムは全くもって完璧ではないことを身にしみてわかっているが、ITシステムがどう作られてどう運用されているかに馴染みがない人は、「こうすれば、こう動く」という正常な挙動を当たり前だと思う。そして、当たり前だと思うが故に、何かうまく使えない状態になると、不満が募ったりする。
こういう心理的な要因が、システム運用においてユーザの満足度を下げる結果に結びついてしまう。やれて当たり前、失敗すれば説教。そういう減点評価しかされないような状況を作り出してしまう傾向にある。
 
現在はSLA締結により、システム運用の妥当性について、相互に納得した上で評価しましょう、ということが当たり前のように導入されてきている。そのSLAでも、オンライン稼働率99.9%とかで定められており、決して100%にはならない。こういう積み重ねから、システムは完璧でないことへの理解をユーザに深めていくことが重要になる。
 
 
 
ユーザを巻き込んでPDCAサイクルを回す
 
システムが完璧でない、という事実を受け入れると、より良くしようという前向きな動きも出てくる。システムは、広義の意味ではベンダだけが運用しているのではなく、ユーザとベンダが一体となって運用されるものである。ベンダは、その中のITに直接的な作業を担っているにすぎない。
 
なので、常に問題点や改善点を管理し、システムの目的を整理した上で、どういう風に改善されるべきか、を話し合う機会が必要になる。お金をもらった仕事をしているので、ユーザに押し付けるわけではないが、システムに関する全ての問題を弁だが抱える必要もないはずだし、それではちゃんとした運用は不可能だ。
 
継続的な維持・向上が評価されるような仕組みづくりや、ユーザとの関係構築が、減点評価の世界から脱却につながるはずだ。

 

経営思考の「補助線」
御立 尚資
日本経済新聞出版社
売り上げランキング: 1015


あわせてどうぞ。

 

組織における「衝突」の意味

明るく振舞う – 経営戦略コンサルの洞窟を読んで、組織における「衝突」の意味を考えてみる。
 

多少無駄だと分かっても、無駄だと論戦を張らず、とりあえずやって見せて、話を進めたほうが短時間でクライアントに付加価値がでることもある。

やや大人な対応をしている気もするが、チーム全体が気持ちよく仕事しているほうが明らかにクライアントへの価値が高いと思うようになった。
明るく振舞う – 経営戦略コンサルの洞窟

組織において、無駄だと思う作業がある。そのときに2つの選択が考えられるわけで、ひとつは「従順」で、もうひとつは「衝突」。
 
「従順」の場合は、完全に納得はしないけれど、それを受け入れることで相手の心理的な満足感を得ようとする。これはこれでひとつの正解。思考停止で受け入れてしまう場合もよくある。
 
コンサルタントがやりがちなのは、「衝突」。「あるべき」を振りかざして、上司だろうと顧客だろうと、それは無駄ですよという切り込みを行っていく。ひとつひとつの作業の意味や正当性を疑え、と教え込まれてきたし、正しいことを追求する姿勢を求められているからだ。
 
 
衝突することのコスト
 
あるべき姿を求めるのは正しいが、衝突するにはコストが発生する。それは時間であったり、労力であったり、心理的負担であったり。主張を戦わせることはエネルギーを有する行為であり、またそれによって状況を変えることは、多大なコストを要する。
 
例えば、無駄な作業があったとして、素直にやれば30分で完了するのに、その妥当性を2時間議論するのは、どちらが正しい行為か?という比較を考える必要があるのと思うのだ。お互いが疲弊し、心証を悪化させ、その結果として結局は作業を行う羽目になったりする。
 
そういう観点で考えると、無駄と思う作業であっても、受け流すことにより、時間やメンタルも含めて、トータルコストが小さくなる場合もある。それによって、アウトプットが高まることにもつながる。
 
 
それでも衝突することも必要
 
かといって、衝突を恐れたり回避してもいけない。顧客や組織にとって良いと思うことについては、追求する姿勢はもちろん重要だ。では、どういうときに衝突を選ぶのか。それは、衝突した結果として、その先に大きな結果が得られる見通しがあるとき、である。つまりは、トータルコストで考えた場合に、ちゃんと利益が得られる議論や衝突となるのか、ということを問わなければならない。自分の満足感やエゴだけではいけない、ということだ。

あわせてどうぞ。

 

都道府県の視点では、教育の高さと所得の高さは因果関係がない

一般的に、高学歴の人は高所得だといわれている。統計的な検証もされているはずだ。この学力テストがそのまま所得の高さに結びつくかといえば、考えてみれば当然だけどそうではない。

それについて、いくつか仮説を考えてみる。以下、個人的な思い込みに近い仮定。

仮定① 中学生までに学力が高い人は、そのまま学力が高い傾向を維持する

 この仮定が成立しない場合は、学力を低下させる何かが、高校以降の生活に要因として存在する、ということになる。進むべき学校が存在しない。存在しても、所得が低いために、高い学力を維持できる環境に身をおけない、等々。実際にいるかもね。

仮定② 学力が高い人は、高い学歴を経る傾向にある

 学歴が高いと言われている高校・大学・大学院に進むとなると、ある程度選択肢が限られる。事実として、全国的に名が知れている大学は、ほとんどが東京に存在するのだ。そうなると、高い学力の人は、高校や大学に進学する際に、地元に残らない可能性が高くなる。

仮定③  高学歴の人は、高所得を維持する傾向にある

 これは、先ほども触れたように、統計的にある程度実証されている。高学歴の人は、高所得を得られる場所を選ぶことになるのだ。それは、県民所得の記事でも書いた通り、圧倒的に東京がずば抜けている。

学力の高い人は東京に吸収されている

上記の乱暴でざっくりした仮定に従うと、地方で育成した学力の高い人は、東京などの都市部に吸収されている、ということになる。これは、プロ野球でいうと、主力選手を移籍金ゼロで引き渡す、という行為になる。
何が言いたいかといえば、地方で高い学力を維持することが、県民所得の向上に結びついていないのではないか、ということ。地方自治の観点からいって、教育に投資対効果が得られているか、ということである。
教育は、最終的な目的は、ハイレベルな人材を育成し、GDPを高めることにある。それが、都道府県単位で見た場合に、ちゃんと自分の都道府県にGDPというリターンがないのではないか、という意味だ。
(都道府県別のGDPに該当する、県民経済計算を参考。学力1位の秋田県は36位。学力ワースト1位の沖縄県は38位。)

 
(引用元:平成18年度県民経済計算)

高い学力を子どもに見つけさせたい方。いずれ、自分の子どもが自分の住んでいる土地を離れる覚悟を持ちましょう。

地方がとりうる戦略は

考えられる戦略は2つある。そのひとつとして、教育水準が高い、という実績から、教育関係の高い人材を積極的に招くことだ。これにより、より高い人材を確保し続けられるとともに、高い教育を受けたい、という人たちをひきつける魅力になるかもしれない。ただ、人口集積の高い産業ではないため、工場を1箇所誘致したら、従業員やその家族を含めて数万人が流入してくる、みたいな即効性のあるインパクトはない。
もうひとつは、人材が東京などの他都道府県に流出した場合は、教育投資を行った都道府県が、東京で稼いだ人からもらった税金を受け取れるシステムにすることだ。地方での教育投資の恩恵を受けた人材を使って、経済効果を得ていると考えると、地方にその恩恵の一部を返還してもおかしくはない。
ふるさと納税は、まさにそういう構造を是正するために考えられた仕組みだ。ただ、これはあくまで納税ではなく、寄付金扱いになるので、厳密な仕組みではなく、地方が人材を積極的に育成し、放出する上でのインセンティブとはいえないが。

結論

自分の住んでいる地域の教育水準が高いことは、喜ばしいことだ。しかし、その先に、高い人材を確保する産業がなければ、その人たちは妥協して収入の低い産業に従事するか、違う場所を求めて去ってしまうだろう。
それが地方の現状であることを認識することだ。教育を受けたその先に何が待っているかをマクロ的視点で考えてみれば、自分の子どもが歩む先が見えてくる。

子どもの教育に最適な地域は?

親になれば、自分の子どもには良い教育を与えたい。頭の良い学校に通わせたい。そう思うのが親心。
自分ももうすぐ親になるわけだが、変な言葉になるが、ある種教育現場に過度な期待をしていないせいか、今のところ不安やこだわりみたいなのはない。今住んでいる場所で、穏やかな空気を吸って成長して欲しいと願う。
 
ただ、気にする人は気にするだろう。というわけで、子どもの学力向上に最も有利な地域というのを考えてみる。考えるインプットは至って簡単。学力テストの全国結果。ちょっと前に発表されたばかり。
 
 
まずは、学力テストとは?
 
正式名称は 全国学力・学習状況調査 。国は、全国的な義務教育の機会均等とその水準の維持向上の観点から、学力や学習状況を把握・分析する。各教育委員会や学校等が、全国的な状況との関係で、自分たちの教育施策の課題等を把握する。そういう目的から、国立教育政策研究所が主体となって行っている。どれぐらいの頻度で行うかの定義について記載を見つけられなかったけれど、実績を見る限りでは、年1回のようである。平成21年度で3回目。
 
調査実施の費用を見ると、毎年58億円ぐらいを計上している。賛否両論あるみたいだが、理系的な観点でいえば、全員・毎年ではなく、サンプリング・隔年とかで、もっと費用を削っても、同じ程度の分析結果は得られるのではないか?と思う。
(参考:学力テスト
 
もし、自分の学校はちゃんと学力を測りたい、というのであれば、それを親に理解してもらって費用を出してもらうか、もしくは、5年に1回は全学校で、というような実施方法もある。とりあえず、毎年全学校でやるなんて、統計調査としてはおかしい。統計調査だけが目的ではない、という人もいるだろうけれど。
 
(全然関係ないけれど、最近話題のJALの資金不足額は4500億円。こういう比較をしてしまうと、58億円なんて大した額ではない、と錯覚してしまうから不思議だ。)
 
 
何県に住むとうちの子供は学力が高くなるの?
 
学力テストにおける、都道府県別の結果を見てみると、ランキングがはっきり出ている。1位は秋田、2位は福井。ワースト1位は沖縄、ワースト2位は北海道。自分が住んでいる岐阜県は、47都道府県中26位。なので、子どもの教育に熱心な方は、秋田県への移住をおすすめする。
(参考:: 2009年小中「全国学力テスト」都道府県別ランキング(順位)・一覧。E-NEWS)
 
ただし、ここで重要なのはそのときどきのランキングで一喜一憂するのではなくて、ある程度の期間で見たときに、どの程度変動しているか、ということ。学力テストは3回目になるのだけれど、ある程度ランキングに変動がない、というところに、日本社会の硬直性が見えている気がする。
 
しかし、これもまた3年間だけの話なので、もっと長期的に見なければならないけれど。Jリーグみたいに、ある程度の期間で、強いといわれるチームがコロコロ変わるぐらい、激しいランキングの変動を期待したいなあ。
 
 
地方にだって住む魅力はあるのだ
 
ランキングで見たとおり、都市部=高学力でも何でもない、という事実に気がつく。地方に住むことにだって、こういうメリットがあるのだ。ただ、これはまたおかしな社会構造のような気がするけれど。
 
それについては、記事を分けて書く。

あわせてどうぞ。